夜間の早い時間にも冬の星座が見られるようになり、日も短く、寂しい晩秋です。このコーナーの原稿も早くと思いつつも、日頃の怠慢から昼夜を問わず忙しく動きまわって、なかなかパソコンに向う時間が少なくなりました。この1カ月前には新潟中越大地震があり、私の「ひとりごと」の9月に書いた「占い」が悪く的中いたしました。被災された方々にはお見舞いを申し上げます。一日も早い復旧をと、願うばかりです。頑張って下さい。
11月は新札から始まりました。新千円札の野口英世博士は県民の一人としても、大変喜ばしく自慢のひとつがふえましたが、裏は富士山でなく、磐梯山と猪苗代湖にして頂きたかったと県民は思っている筈です。なんせ磐梯山は毎日のように英世少年が、この山に願いをかけ見上げていた尊き「宝の山」ですから・・・景気回復に一役買ったかも・・・
二本松に行く用事があり駅を訪ねました。そこで観光協会のコーナーがあって、戒石銘の拓本をみつけて購入しました。このパンフレットの文章と写真をご紹介いたします。

「戒石銘(かいせきめい)について」
霞ケ城址は、福島県二本松市に所在し、江戸時代・寛永20年(1643年)から明治元年(1868年)までの220有余年にわたる、二本松藩・丹羽氏10万700石の居城でした。城の東手には藩庁があって、藩士達の通用門がありました。
その藩庁前に露出していた長さ約8.5m、最大幅約5mの自然石(花崗岩)の大石に刻まれたのが戒石銘です。
5代藩主(丹羽家7代)丹羽高寛公が、藩儒学者の岩井田昨非(いわいださくひ)の進言により、藩士の戒めとするため、命じて刻ませたもので、寛延2年(1749年)3月に完成しました。銘は、露出面の縦1.03m、横1.82mの間に4句16字を刻みこんだもので、その書体は非常に典稚(てんが)さが感じられます。
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読み方 |
爾俸 爾禄
民膏 民脂
下民 易虐
上天 難欺
寛延己巳之年春三月 |
爾(なんじ)の俸(ほう) 爾(なんじ)の禄(ろく)は
民(たみ)の膏(こう) 民(たみ)の脂(し)なり
下民(かみん)は 虐(しいた)げ易(やす)きも
上天(じょうてん)は 欺(あざむ)き難(がた)し |
つまり「お前(武士)の俸給は、人民があぶらして働いたたまものより得ているのである。お前は人民に感謝し、いたわらねばならない。この気持ちを忘れて弱いじん民達を虐げたりすると、きっと天罰があろうぞ」、と解釈されています。
この戒石銘が、二本松藩士の士風を奮い起こしたことは言うまでもありません。明治戊辰の戦役において、藩の子弟が二本松少年隊として西軍に対して奮戦力闘し士道に殉じ、また重臣の多くが城を枕に自刃して武士の亀鑑(模範)を示したこともまた、この戒石銘の余香であったと思われます。 昭和10年(1935年)教育資料として、また行政の規範として価値の高いものであるため、国史跡「旧二本松藩戒石銘碑」として指定されました。
2004.11.27 |