8月は終戦の月です。団塊の世代と言われた我々=「戦争を知らない子供達」も白髪が目立ち早々に還暦を迎えようとしています。戦争を直接は知らなくとも、戦争を体験し貧しい生活の中、日本の戦後の復興に携わって来た両親や祖父母の背中を見て育ってきた我々は、その目まぐるしい変化を肌で感じた「歴史の証人」としての資格は十分にあると思っています。
「何もかも無くて鍋一つからの出発だったよ」としみじみ語る父。遥か遠くの異国の地に祖母とわが子を亡くして引揚げ船で帰国してきた母。最近の中国での反日の嵐は、日中間に悪影響を与えるばかりで、中国人民の心の貧困さが目立ってきました。(前に、このコーナーで中国人のスポーツ観戦での国際的モラルが欠如している事を指摘いたしましたが・・・)私は歴史の見方や考え方は統一されるものではなく、いろいろな考え方があって良いと思うように最近はなりました。中国共産党の教える近代史は、侵略者=日本帝国=悪と言う構図、方程式から日本人嫌いとか、日本製品不買運動の結論が導き出されます。友好の二文字が消え、逆に被害者意識を煽り、政府自ら先導していることに憤りを越えて哀れさえ感じるのです。指導者の意識がこのような貧困な状況であるなら、あと100年経過しても同じ事の繰り返しではないでしょうか。
国が存在する以上、歴史とは同じレールには乗れないものであることを理解さえしようとしないのは残念です。私は、10年前に父と父の友人達と一緒に北京・ハルビン・大連に「墓参」に行きました。戦後50年の節目に中国政府の許可のもと50回忌を現地で行いました。私の兄の墓参でした。両親は時の政府の方針であった「満蒙開拓団」の一員で、荒地を耕作するために新しい生活を求めて、日本を後にしたのです。国の方針、それが侵略のお手伝いだったのです。父は農地を耕作していましたが、「満州」で兵士に徴用され、ソ連に捕虜になりシベリヤでの重労働も経験する事になりました。一方残された母は、敗戦で引揚者となり、寒く貧しい難民収容所での暮らしで、祖母と兄二人の三人を亡くしてしまいました。父が開放されたのは昭和23年でした。
私は二十歳の頃に、父に「なぜ天皇や日本政府の言いなりで満州に行き、戦争に加担し、侵略者の片棒を担いだのか?」と責めました。今では暴言であったと反省しています。加担者も犠牲者だったのです。そのことを中国人民は理解して欲しいのです。庶民は常に犠牲者なのです。
私は、戦争を身近に体験するために沖縄、広島、長崎、サイパン、ハワイ、そして東南アジアでの戦地をいろいろ見てきました。学校では近代史は時間の関係か、大学試験問題に出されないのか分かりませんが教えてはくれません。最近、広島の原爆慰霊碑の「過ちは繰り返さない」の言葉が、暴漢に削られたとの報道に憤りを感じました。「過ち」を「過ち」と感じなくなったのでしょうか。あの戦争は誤りでなく正しかったのでしょうか?
ハワイの真珠湾記念館でガムを噛みながら談笑し、ピースをしている日本の若者に出会いました。沖縄のひめゆり平和記念館の近くに米軍払下げ軍服を売っている店があり、軍服をお土産にしていました。サイパンでは旧日本軍の戦車が海に陸に「見せしめ」として置き去りになっており、そこに乗ってふざけていた若者を目にいたしました。天皇陛下が「バンザイクリフ」で頭を垂れてお祈りしているお姿に、「過ちは繰り返さない」とか、人間としての手本があるのではないでしょうか。学校では子供達に「ここの場所はどのような場所か?」教える必要があるのではないでしょうか?それが歴史を考えるきっかけになると思います。
ところで、間接的ではありますが戦争で死んだ祖母と兄二人は「靖国神社」には勿論の事ながら祭られていません。あそこは「戊辰戦争以降の」軍人のみで(賊軍は排除=会津藩も)、広島・長崎・沖縄・東京空襲など民間人の「魂」は別ですね。
2005.8.1
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